山という存在
山田 健太郎さん
熊の革製品販売/狩猟採集家
山という存在
先日、マタギの師匠と一緒に山に行った。2月下旬、山には雪が降り積もっている。マタギと言えば猟、だけれど、実は猟の時期は既に終わっていて、今日は堰(せき)の点検に行った。山の水は堰を通り、まちの中を流れる。それらは雪を溶かすための流水として使われている。堰に倒木があったり、枯れ葉が詰まったりすると、まちに水が流れなくなる。それらを取り除くのが今日の僕たちの仕事だ。山に入る目的はさまざまだ。だからこそたのしい。春には山菜採りに、夏は魚釣りに、秋にはきのこ狩りに、冬は猟に。そんな個人のルーチンワークがありながらも、このように、まちのインフラを整備するような仕事があったりもする。この堰を流れる山の水は、夏には田んぼを満たす水となって、間接的に、僕たちの身体の一部になっている。個人的な活動だけでは、山が僕たちを生かしてくれていることに、気づくことは難しい。まちの中で生活し、さまざまな形で山と関わることで、やっと気づけることがある。山の中にはふきのとうが芽吹いていた。また、春がはじまる。